vol.5
日本初、競馬が行われたのは当社本社付近!?
競馬の歴史に意外な事実。
坂本龍馬の生涯を描くNHKの大河ドラマ「龍馬伝」によって、幕末ブームが巻き起こっています。“幕末を駆け抜けた龍馬”という歌い文句からヒントを得たわけではありませんが、今回は幕末の横浜に上陸した競馬の話です。横浜が競馬の発祥ということについては、中区根岸台にある根岸森林公園に接して残された競馬記念公苑が、横浜市民にも知られていますが、この地で最初に競馬が行われたのは1867年1月11日(慶応2年12月6日)とされています。
森林公園の西端、桜の森の向こう側、馬の博物館と向かい合う形で旧競馬場の1等馬見所(観覧スタンド)がまだ廃墟となって存在し、現役当時の様子を偲ぶことができますが、こちらは1930(昭和5)年にアメリカ人建築家J・H・モーガンによって作られたものです。
今回、幕末の歴史をひも解きながら調べましたら、根岸台の競馬場が誕生する6年前の1861(文久元)年に、居留外国人が、初めて西洋式競馬を行ったとされる文献を見つけました。場所は洲干弁天社裏とされていて、残された古い地図を見ると、当時開港場の中心に横浜名所の一つであった弁天社があり、裏手に小さな馬場があったようです。その場所が現在当社の本社がある相生町や大田町の5~6丁目付近と見られています。
翌年の1862(文久2)年、坂本龍馬が脱藩した年には、神奈川奉行所が外国人居留地の裏手の湿地帯を埋め立てて、現在の山下町、中華街の付近に1周1,200mの円形の馬場を設けました。ここで初めて正式の競馬のレースが行われました。
しかし、この年に起きたのが生麦事件。攘夷の浪人たちの乱暴を恐れた居留外国人たちの緊張が高まったのを機に、幕府はイギリス、フランス両国の軍隊の横浜駐屯を認め、外国人居留地がさらに広がっていったため、この場所も住居地域になり、やがて1866(慶応2)年に、当時の根岸村の高台にイギリスの将校が設計したものを、幕府が造成工事が行い、1周1,764m、総面積6,530㎡、日本最初の洋式競馬場、「根岸競馬場」が完成しました。